2011年4月10日日曜日

神の言葉

みんな「公式」が大好きだ。少なくとも、ある作品についてネット上で議論したがるほど入れ込んでいる人たちはそうだ。そして確かに、議論の余地なく公式なコンテンツに何かを追加していくのが一番いいに違いない。それが原典なのだし、良いものが一つあるより、良いものがたくさんある方がいいに決まっている。その追加分が公式でないなら、それは「本当には起きていない」のであって、残念ながらそれ故に価値がない……そうだろう? 実は私個人はそう思っていないけど(ここまで読めばわかるよね)、このブログ記事の主旨はそこじゃない。

何のことかというと、うちの掲示板のこのスレッドに不機嫌丸出しのレスを衝動的に書き込んでしまった。そのあとになって考えた--どうしてみんな「神の言葉」をそんなに気にするのか? 確かに私の態度は良くなかった*けど、「俺たちは(略)釣りネタかましたり、ウソついたり、気が変わったり、その場の思いつきをしたりすることで有名」というのはいったいどういう意味なのか?

1. 釣り

ファンのみなさんの期待をもてあそぶことができる、というのは私たちの活動の余録の一つといえる。正直に言うけど、完全版には必要な要素はすべて含まれると考えている。それ以上の情報については、割り引いて聞いておくべきだ。余談だけど、いつも釣りネタを常時かましている、あるいはあまり頻繁にやっていると、効果がなくなってしまう。なので私たちはやりすぎないようにしている。

2. ウソ

確かにただの意地悪だ。でも本当のことを隠すため、あるいはばかげた質問への腹いせに、うそをついたことはある。結局最後には1番で述べた内容に落ち着くけど。

3. 気が変わった

これはしょっちゅう起きる。もう公開された部分についてはあまり起きないことを願いたいけど。(そう言う部分は「もっとも公式度が高い」ので。気にする人には、ね)私たちは何か有意な形でAct1の内容を変えるつもりはない。でもその必要があると思ったときは、そうするだろう。未公開の部分については、まあ……もうちょっと気が変わることが少なければうれしいんだけど、とだけ言っておこう。ありがたいことに、現時点では今までよりはそういう心変わりが起きることは少なくなったようだ。

4. その場の思いつき

質問を受けたときや、たまたま何かを思いついてしまったときに、ストーリーと全く関係のない事柄について述べることがある。これは他の開発チームの面子があえて否定するまで、大筋で「公式」ということになる。でもそんなものに意味なんてあるだろうか? だいたい本当に意味があるなら、最初からゲーム本編に含まれているんじゃないか?

まとめると、一般に存在する「公式」に対する(私にしてみれば度を過ぎた)こだわりの他に、二つの大きな問題がある。

・かたわ少女はよその作品と違って、外部世界をがっちり構築するようなことをしていない。私たちが語る物語の外側により大きな世界があるかどうか、正直そんなことは気にしてない。もし気にしていたら、その世界がもっと魅力あるものとなるように努力していたはずだ。これはスタートレックや指輪物語、それどころかFate/stay nightでさえない、ほんの小さなお話だ。作品中の一貫性を保つという意味では、公式であることについて気を使っているけど、それ以上はあまり気にしていない。


・そもそもその外部世界なるものの中心にある物語だって、表に出ている分量はまだ非常に少ない。だから私たちが何を言ったとしても、常に変更になる可能性がある。

たとえば、Richter Bromontは山九学園の校長をルチャドール(訳注:格闘技ルチャリブレの選手)として描いたが、以前私はその描写は正しいと述べたことがある。だとしても、今の時点ではゲームに何の矛盾も生じない。(校長本人はゲーム中に登場しないし、その描写が正しいかどうか判断できるほど詳しく言及されてもいない)だから全くのうそをついたというわけでもない。私は単に面白いと思っただけだ。でもこの一言だけで、その描写は「公式」、作品世界における「事実」となるのか? そういうことになるんだろう。ただ、もし作品中に校長を登場させることになった場合は、なんというか、もうちょっとまともな人物として描かれるだろう。実際、初期のシナリオ稿では校長の出番もあって、その校長は女性だった。そっちの方が私の思いつきの発言よりも公式度が高くなるだろうか? でもどっちみち、もうゲーム本編には登場しない。ことの本質は、作品中で示されたものの他に、客観的な現実なるものは存在しないということだ。作品そのものにしても、書き手を信用するしかない。当然に見えるかも知れないが、私は最近うみねこのなく頃にを読んだ。そしてその作品世界がそれなりに考証が行われたものだとしても、それはやはり架空のものであって、現実と同じように全ての辻褄が合っている必要はない、ということをうみねこファンが受け入れられていないのを目にした。**そんなうみねこが文章として良い出来なのかどうかは、もちろん読者が判断すべきことだ。そしてあることがらがはっきりと説明されていないとしても、「決まっていない」という状態が公式となることは全く問題ない。映画「インセプション」のエンディングがいい例だ。それに対する反発も含めて。

さらに二次設定という問題もある。東方の作品世界はほとんどが二次創作による設定だ。そのうちの何かを公式と信じる人が十分に多ければ、いずれその設定が「真実」とされることは間違いない。ファン層は自分の手の内に物事を取り込む。それが本編の物語よりも面白かったとしたら、誰が文句を付けるだろうか? だから私は、いろんなコメントをかき集めてより大きな世界を構築しようとする人たちをとがめることはしない(それが楽しいのであれば)。ただ、私たちはその活動を追いかけるほど気にはかけていないというだけだ。本編の内容を管理するための労力もすでに限界に来ているのだから。私はゲーム本編において意味のある内容はもう収録されているか、今後必ず収録されると考えている。必要以上に大きな世界を作り込む必要はない。多くの商業作品と違って、私たちは続編を作ったり、スピンオフのための仕掛けを用意したりすることを強いられているわけではない。運が良ければ、こうした本筋でないアイディアが一つの架空世界へとまとめられる可能性はある。でも期待はしないでほしい。

—delta


* 書き手を「神」と呼ぶのはちょっとバカバカしいのではないかと思う。tvtropes発祥であることはもちろん知っているけど、だからといって何かが良くなる訳じゃない。tvtropesなしにはまともな議論を全く行えず、ここ最近はあのキャメルケースで書かれたダジャレをみんなが使っている始末だ。あれがいつから始まったのかはどうでもよくて、tvtropesのおかげで実にウザい、目にしたくない、ムカつく代物になった。

** 今にして思えば、うみねこは「釣り、ウソ、心変わり、その場の思いつき」が物語の核心だった。まさにそこがいいと思っている人も多かったみたいだ--白状すると、私もそう思っていた。それ以外は微妙だったけど、単なるブログ記事の範囲を超えるので触れるのはやめておく。

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