2010年8月8日日曜日

いったい私たちは何を作っているのか?


昨日のことだ。誰が最初に言い出したのか忘れたけど、開発IRCチャンネルで没入感という厄介な問題について議論をしていたら、何がビジュアルノベルに分類されるのか、というもっと大きな議論になっていた。きっかけはお決まりの話題--いったいビジュアルノベルの何がいけないのか、というか、どうしてVNはポップカルチャーとして大流行できないのか、だった。(ネタバレ:VNがポップカルチャーとして大流行することはあり得ないだろう)

問題は、ビジュアルノベルはゲームであることとノベルであることの中間に引っかかっているように見えることだ。VN界隈の進展にまつわる議論をいくつか見ていると(要は某Novelstreamについての意見だけど、私はコメントする気はない)、開発者志望の連中が「VNができること」のリストを並べ立てている一方で、彼らが言っているものはVNというよりむしろRPGに近い、ということに気付いていない。おめでてーな。思うに、VNの定義というものが存在しないのが問題(の一部)なのだろう。じゃあそいつを定義してみようじゃないか。

The Hivemindの定義するビジュアルノベルとは:スタンドアロン形式の電子書籍(つまりインターネットはいらないって事だ)で、テキストと立ち絵、写真またはアニメーションを組み合わせて物語を表現する、という特徴を持つ。(つまり、ビジュアル要素とテキストが結びついた物語)。

この定義はかなり幅が広いし、物語が表現される形式にも解釈の余地が大きい。これを狭めてしまうと、革新的な工夫の余地が犠牲になる。先入観も混じってしまうだろう。さっき「インターネットはいらない」と書かざるを得なかったのは、webベースのVNがすでに存在するけど、それがVNの全てではないからだ。物語に対して読者がコントロールを及ぼすことについて、私が全く言及していないことに気付いた人もいるかも知れない。そのコントロールもVNにとって必須なものではないからだ。この形式の核心であるたった二つの要素は、名前そのものに表れている。ビジュアル要素とテキスト要素がなくてはいけない。ゲーム要素を加えると、それはビジュアルノベルではない、別の何かになる。あるいは電子文学の異なる一形態かも知れない。

こうして定義をしているけど、電子文学という言葉も定義しないといけないだろう。ここはズルをして、どこかの学問的な定義を借りることにする。(そっちでは「デジタル・フィクション」と呼んでいるけど、電子文学でも意味は通るので、こっちを使っている)「コンピュータの画面上で読まれることを想定して書かれている、電子的媒体を通じて言語的・散文的・概念的な複雑さを追求しており、他の媒体に移された場合、その審美的・記号的効用の一部が失われるようなフィクション」 ビジュアルノベルであれば立ち絵の動きや音楽が失われたりするだろう。作品によっては挿絵付きの本として作られても何も失われないだろうけど。失われるものもある、という事実だけで十分だ。

というわけで、定義の話はこれでいいとして、もう少し深く掘り下げてみよう。かたわ少女のようなものを読んだときに何が起きるのか、検証してみよう。

ここで目にするものは何か? KSは一人称の物語だ。それだけじゃなく、読者はCYOA(訳注:Choose your own adventure/日本で言うゲームブック)みたいに、様々な状況に久夫がどう反応するか選ぶことができる。(誰かアポロ13号のゲームブック、覚えてる?)これによってKSは「ゲーム」となるのか? 繰り返しだが、これも定義の問題だ。普通、ゲームには「勝ち」と定義される何かを達成するための条件がある。プレイヤーはゲームが設定した条件の下で行動しながら、勝利を達成する。KSにはそういう勝利条件は存在しない。「幸せ」なエンディングもあるし、「悲しい」エンディングもあるが、私たちはそのうち一つを「正しい」エンディングと定義するようなことはしていない。久夫は女の子とゴールインしたりしなかったりする。「悲しい」エンディングはゲームブックにおけるバッドエンド以上のものじゃない。そうなったら前に戻って別の選択をして、先に進むだけだ。ただ、一人称の叙述と、一部とはいえ久夫の反応を選べることが組み合わさって、かたわ少女の読者は自分が久夫であるという感覚をより強く覚えるだろう。(climaticはこれを「俺ってマジで○○みたいだぜ」効果と呼んでいる)この特徴は、かたわ少女を恋愛シミュレーションとして成立させるものではない。特にゲーム内のルールに従って何か努力をする必要はなくて、私たち開発者が決めた、悲しいエンディングではなくハッピーエンドに至るようなストーリーの分岐を選ぶだけでいいからだ。

というわけで、VNはゲームではない--自分からVNとして売り込んでいるようなものは、実際にはビジュアルノベルではないか、事実を曲げていると言うことだ。さらに、(こんな事は当たり前すぎるけど)VNは恋愛を題材にしなきゃいけない、なんてことは全くない。VNはゲームよりも物語に重点を置いた電子的な文芸作品だ。ゲームに重点を置いた作品の例を挙げると、Mass Effectがそうだろう。これも分岐する物語で(これも単純化しすぎた表現だけど、これ以上深く説明するともっと長くなってしまう)、プレイヤーはスキルに基づいて様々な障害を乗り越えていく必要がある。(また、全てのキャラ成長や装備の選択は物語に影響しないが、スキルによって障害をクリアする際の難易度には影響する。)個人的にはもっと三人称のVNや、いくらかロマンチックでないVNを見てみたい。VNを現状に押しとどめているものは、(VNはゲームだという、誤った頭の固いこだわりを除くと)物語に対する実験性の欠如だ。私たちはいまだにもがき続けている--そして、私は恋愛とアニメ的お約束に寄りかかりすぎた派生的VNのどうしようもないリストとKSを一緒くたにまとめている。(私たちはこれを避けるために非常に苦心した。だけど元の設定そのものがあまりにもコテコテなので、オリジナルなものを作り出せる可能性は最初からつぶされていた。)

まだそんなVNが存在していない、と言っているわけじゃない。思いつくだけでも2,3は挙げられるし、皆さんならもっと多くの作品を挙げることができるだろう。でも確実に、それは典型的なVNとは思えない。そうなるまでは、VNは時々関心を集めるだけで、その形式を上手く活用する物語に覆い隠されてしまう、そんな運命にある。VNの強みは、複雑な物語を印象的な美術と融合しながら伝えることができる点にある。残念なことに、このフォーマットにはあまりにも多くの面倒ごとを引きずっているので、その根っこからきれいに決別して、別の何かへと変化することでしか生き延びることはできない。「電子小説(electronic novel)」という言葉には、格別な響きがあると思わないか?

--The Hivemind

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