2009年11月19日木曜日

# イベントCGをもう1つ —δ

KSの開発に携わる中で得た重要な認識の1つが、たくさんのメディア作品に消費者として触れることも確かに役には立つが、それでは実際に 作る側の経験は得られないということだった。苦痛なほど明らかながら、気の沈む事実だ。このことを考えないようにしようと頑張っても、いつかは気付く。さ らには、ビジュアルノベルという分野については、プロに意見を聞いて廻ったり、信頼できる本を読んだりといったことが出来るわけではない。なので私たち は、良い結果を祈りながら色々なことを試している。何も大したことは言っていない――良いストーリーのためには、展開のテンポなど、有名ないくつかの原則 に従う必要があるのは明らかだし、どんな絵が見るものを喜ばせるかも直感的なものだけに明白だ。大も小から作られる。細部が大事なのだ。

と いうことで今日はイベントCGについて少し書こうと思う。しかしイベントCGについて語るためには、イベントCGに代わる物とは何かについても語ることに なる。まずたいてい、それは立ち絵と背景だ。立ち絵と背景はほとんどあらゆるビジュアルノベルの基礎を成している。というのも立ち絵や背景の製作には『最 初だけ』労力を注げばよく、それ以降ほかの場面でもずっと使えるからだ。長篇ゲームにおいて立ち絵と背景は―馬鹿みたいに予算がない限り―ゲームの屋台骨 となるのだ。

もちろん、ずっと同じ立ち絵と背景が繰り返されるようでは、とても刺激的とは言いがたい。そこでイベントCGの登場だ。基本 的に、イベントCGというのは特定のイベントのために特別に作られたものであって、あちこちで使えるものでも、立ち絵のように組み合わせて使うものでもな い。ただ我々も実感したのだが、イベントCGをどこで使うか?どこで使わないか?という問題に答えを出すのは、言葉の響きほど簡単ではない。

開 発チームでは二種類の意見があった。あるものは「イベントCGはもっと具体性を減らして、あちこちで使えるようにしたほうがいい」と言い、あるものは「非 常に具体的に描き込み、表示されたときのインパクトを最大限にしたほうがいい」と言う。これには様々な議論がなされたが、結局両方やってみることになっ た。その結果、よくあることだが、どちらもそれぞれの欠点を抱えていることが明らかになった。ゲーム中で大多数を占めるのは会話シーンであって、それにイ ベントCGを費やすのは理想的とは言いがたい。立ち絵でも出来たはずのことだからだ。しかしもう一方の、『一般的でない』出来事1つ1つにイベントCGを 作るというのも、やはり無理がある。理想的には、ゲーム全体をイベントCGだけで構成出来るのが、決して退屈になることもなく最適だろう。(実際にやって しまっているゲームもある) しかしイベントCGは『高コスト』だ。金銭的にそうでなくとも、労力を要する。そのため、好きなだけイベントCGをというわ けには決していかない。

基本的に、イベントCGについて検討されるシーンには2種類ある。『視覚的なインパクトを追加するに値する重要な シーン』と、『単にイベントCGなしでは視覚化できないシーン』だ。この両方に合致するシーンばかりであれば、話は簡単だろう。しかし、費やしてもいい CGの量が少なくなればなるほど、2つのシーンは離れていき、実現可能性のためにCGの節約を強いられる。結果、ある種の抽象さ―文章中にあるものを視覚 化出来ない場面―が発生する。そして悲しいことに、与えられた選択肢は『イベントCGに値するがCG無しでも済ませられるシーン』か『視覚的な表現に難が あるだろうが、あまり重要じゃないシーン』か――この場合、選ばれるのは後者だろう。

さて、私たちが得たものは何だろう。私たちは上に書 いたような認識(正直、そんなに深いものではないが)を最初からは持っていなかった。そこで私たちは、どこにイベントCGが欲しいかの決定をライターに任 せた。それが有効なこともあったし、そうでないこともあった。でも仕方がないだろう。イベントCGが必要だと本当に気付くのは、立ち絵だけでシーンを演出 しようとして上手くいかなかった時ようやく、というのが常なのだ。とはいえ、演出を試すのはシーンが書かれたときで、その頃絵師はすでにイベントCG作り に取りかかっているだろう。ビジュアルノベルで実現しづらいというだけの理由で、時には歯を食いしばってテキストを削ることも必要になる。もちろん、熟練 のビジュアルノベルのディレクターはこういった事を簡単に予期できるだろう(そもそも熟練のライターは前述のようなジレンマを引き起こすシーンは書かない だろうか)が、うちの開発チームのみんなは『かろうじてそれが出来るようになってきたところ』だと何の抵抗もなく認めるだろうと思う。実はこれが、時々開 発ペースが嘘のように遅く見える大きな理由だ。

それがありのままだ。私たちはまだ、毎日新しいことを学び、試している段階なのだ。絶対的なものやセオリーではなく、妥協と実作業経験に立脚している。いつもがいつも簡単だったり楽しかったりするわけではない。しかし、だからこそ『かたわ少女』プロジェクトは面白いのだ。

今日のブログの絵を描いてくれたのは、急にイベントCGが欲しくなったときに頼りになる絵師、climaticだ。




— delta

2009年11月11日水曜日

新着報告

まだみんなが毎日このブログをチェックしてくれているのというのに、最近誰も記事を書いていないので、みんなが心待ちにしているであろう記事を書いて、笑える進捗報告としたい。

5つのルートのうち、2つは第二稿が書き終えられ、他のライターや編集から細かい批評が入った。それらにはライターが少し加筆してから、編集段階で長々といじり回していくことになるだろう。

3つ目のルートは第二稿の完成に向けて順調に進んでいる。そして4つ目もペースが上がり始めている。

アートの面ではいくつかのCGが新たに描き上がったが、多くのCG担当が試験機関に突入するので、12月まではペースが落ちることが予測される。うまくいけば、学業の足かせが外されたとき、そこから反動的にペースが上がるかもしれない。

もっとここに書ければ良かったのだが、実際、進展はせいぜいこの程度だ。もちろん、私たちにとってはずっと劇的な進展だ。ここで『ルート二つ分書き上がった』と言うのは簡単だが、しかしそれは私たちにとっては20万語分ほどキーボードをぶっ叩いたのに相当する。


お粗末なくらい短くなってしまったので、私がこの前の晩に気付いたことについて書こう。

不測の事態がいろいろあって、私はプロジェクトそのものから3週間ほど離れていた。私が戻った時には、レビュー待ちのシーンが多数と、そして私が書いた2、3のシーンにコメントが付いていた。

私たちが(とりわけ最初の草稿に対して)内部的に感じた最大の不満は、久夫にあまり存在感がないことだ。私たちは薬を飲む久夫や、その副作用(私たちが『久夫が悪夢を見るシーン』をどれだけ没にしてきたことか、皆さんは信じられないだろう)などについてどの程度描写するのかを議論してきた。

また、久夫の人物像をもっとプレイヤー自身のそれを反映したものにしようという試みもあった。一時、Act1における内容として『あなたは山久学園へのドアをくぐろうとしている。どんな気分がする?』というものがあったが、これは今までにないくらいひどい失敗に終わった。そういうわけで、あなたは自分で自己紹介をするか、あるいは武藤に紹介してもらうかを選ぶようになっている。

しかし、この新たなシーンの数々によって、すべてが変わってしまったようだった。私が書いたシーンに寄せられたコメントの一つは『久夫を書き過ぎ——お前は華子ルートを書いているのであって、久夫ルートではないだろう?』というものだった。自分も他のシーンをレビューしていて似たような印象を持った。久夫はもはやプレイヤーの精神に取り付けられただけのちんこなどではない。彼は一人のキャラクターなのだ。それだけでなく、久夫は基礎的な部分
共通しているが、ルートに応じて異なる人格となっていた。


ともかく、開発の中で『久夫』から一人の個性が——少なくとも部分的に——形作られたというのは面白いことだと思った。
あるいは、睡眠とKS分の不足による錯覚か。どちらももっともらしく思える。

今日のブログアートはDoomfestより(少し遅ったかもしれないが)。



- Crud